日本維新の会 兵庫県議会議員 高橋みつひろのホームページ   

神戸との出会い

子供の頃は大阪に住んでいたのですが、魚釣りが好きで友達とよく須磨海岸や塩屋海岸に魚釣りに来ていました。中学1年の時には、真冬の須磨海岸で魚釣りをしていると、500メートル位沖合にゴムボートに乗った2人のおじさんがオールを流され懸命に手を振って助けを求めているのを発見し、警察に通報して人命救助で表彰されたこともありました。京大在学中には、休日に友達と三宮まで出かけセンター街でウインドーショッピングをしたり、たまには三宮の居酒屋で夜遅くまで飲んでいました。当時の大学生にとつては、ちょっと小粋でおしゃれな神戸は憧れの街でした。

就職、そして転勤

就職は保険会社に入社することになり、全国を股にかけた転勤族になりました。出身地の大阪を皮切りに主に関東方面を中心に転勤をしました。そして37歳になった1月、得意先の三越銀座店の社員食堂でテレビを見ておりましたら、神戸で大きな地震が起こったとニュースが伝えておりました。そこに映し出されたのは破壊された神戸の街でした。学生時代に憧れた神戸の街が崩壊した映像を見てがく然としました。そうです、阪神淡路大震災が起きたのでした。それからは連日のようにテレビでビルの倒壊現場や国道43号線が崩壊した様子が映し出されていました。そして約2ヶ月が経った3月初旬、会社から私に人事異動の発令がありました。赴任先は2ヶ月前に阪神淡路大震災のあった神戸の営業部に、課長に昇格させるので神戸の営業部を立て直してこいとの辞令を受けました。4月1日に東京から新幹線に乗って大阪まで行き、そこからは在来線で三宮まで行くことができました。しかし、JR三ノ宮駅から神戸の営業部のある京町までの500メートルほどの道すがら、倒壊したままになっているビルや途中階が押しつぶされた神戸市役所の現場を見て気を失いそうになりながら、何とか営業部にたどり着いたことを覚えています。その日は、上司や新しく部下になった若手社員が歓迎会をしてくれることになったのですが、三宮にはどこも開いている店がなく、やむなく駅前のテント小屋のような仮設の居酒屋で私の転入祝いをしてくれることになりました。住まいは比較的被害の少なかった西神中央に居を構えました。周辺の公園には仮設住宅が多く建てられ、神戸市街地等からの被災された方々が不自由な生活を余儀なくされているお姿を見て涙が出てきました。

がんばろう神戸

業務では、さっそく営業活動をすることになりましたが、道路はどこも大渋滞で普段なら10分程度で着くような距離でも1時間かかることもざらにありました。また街中はしばらく混乱状態が続き、一方通行の道路であっても逆行するような不届きな車が多くありました。会社からは震災後の営業部を立て直してこいとの課長昇格の辞令でしたので、意気込んで神戸に来たものの大混乱の中での営業活動は思うようにいかず、日々悩みの毎日となりました。しかし一方で神戸の皆さまは、がんばろう神戸を合言葉に奮闘努力され、その皆さまの姿を見ると自分も負けておれないと気を取り直して、いっそう頑張って仕事に取り組みました。試行錯誤の毎日でしたが、9月ごろになると少しずつ混乱状態が解消され、また飲食店などのお店も徐々に開店され復興していく神戸を実感することができました。

第一回ルミナリエ

12月になると第一回ルミナリエが開催されることになりました。会社の事務所がルミナリエの会場のすぐ近くの京町にありましたので、ルミナリエ開催場所に多くの神戸っ子が集まりだした夕刻に、私も同僚たちと一緒に出かけ、今か今かとルミナリエ開催の時刻を待ちました。そしてルミナリエが一斉に点灯した時、それまでの9カ月間の苦労した光景が走馬灯のように目に浮かび、涙でくしゃくしゃになったのを覚えています。結局神戸の営業部では5年間の長きにわたり勤務することができ、一通りの立て直しの道筋をつけ、後任の課長に後を託しました。またその時の仕事ぶりが会社の評価を得て、その後すぐに念願のフランスのパリ主席駐在員に就任することになりました。

阪神淡路大震災から26年

阪神淡路大震災から26年が過ぎました。神戸の皆さまは、苦難の阪神淡路大震災を乗り越え、がんばろう神戸を合言葉に見事に神戸の街を復興に導かれました。しかし震災で疲弊した経済はまだまだ完全とは言えず、勤労者の生活や中小企業経営者の方々の経営上のご苦労は絶えません。また、年金で暮らす高齢者の方々の生活も一向に楽になりません。我々維新の会議員団は、行政の効率化を図り、その余った財源を住民の皆さまの生活に回せるよう全力で頑張る所存です。


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